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コラム 毎週木曜21時更新

2018年12月30日  平成の時代

間もなく2018年が終わる。

しっかし、今年は無茶苦茶クイズをやったなー。特に下半期。特に12月。

それも答える側ではなくて、ほぼほぼ出す側でのクイズだ。

もちろん仕事でずっと20年以上もクイズ問題は作っているんだけど、そういう単純な作業ではなく、ライブ的な「生もの」としてのクイズにたくさん関わった。

企画と問題を作って出題までやるってやつ。なんだろ音楽業界的に言ったらシンガーソングライターという感じか。ちがうな(笑)

まあとりあえずそういうクイズに費やした時間が今年は半端なかったのだ。

濃さで言ったら大学に入った当時ぐらいの濃厚さがあったので、さすがに体力的にキツかったけど、でもそれゆえ懐かしさもあったのでトータルでは面白かった。

反対に今年は解答者としてのパフォーマンスは数えるほどしかできなかった。

その1つが今月放送になったテレビ朝日の『超クイズサバイバー』(12月20日放送)だ。

この番組では僕がスロースターターなのはいつものことで、参加した全ての回でファーストステージは完封なの(あかんやん)。

今回もそんな感じで、じゃあそろそろ頑張らないと、と思ったらいきなり「失格」となり、早々にスタジオを後にすることになった。

昨年末の『サバイバー』では、2回戦は1回戦で唯一正解がなかった僕だけ「待機」になって「なんやねんそれ」と思ったのだが、今回はそれよりひどい「帰宅」だ(笑)

まあ宮崎美子様も先にお帰りになられていたのでその時点で僕は完全に「抜けて」しまったから仕方なかったっちゃ仕方なかったんだけどね(何がや)

でもせっかく呼んでくれたプロデューサーに申し訳なくて。それだけが心残りだった。

辰野さん、ホントにごめん。

というわけで、とにかく僕は惨敗したのだった。

デビュー37年目にして初の無正解での退場となった。

さっさと私服に着替えて局を出て、15分後にはもうタクシーに乗り込んだんだけど(早!)、その車内で改めて思っていたのが、これが平成最後の年末だったんだなーということだった。

僕がクイズを頑張っていた頃の元号は昭和。でも『第13回ウルトラクイズ』があったのは1989年、つまり平成元年だったのだ。

昭和時代はバイト先や友人の間では「クイズ王」と半分茶化されて呼ばれることはあったものの、一般的な意味として「クイズ王」と呼ばれるようになったのはこの平成元年11月からだったのである。

つまり僕にとって平成時代とは丸々「クイズ王時代」だったのだ。

昭和の時代に僕は単にクイズを頑張っていただけだったのに、平成になってそれが実を結び、その結果思いもよらない、実に様々な人と出会えたりいろんな仕事やチャンスをもらい、さらに細かな夢を叶えたりさせてもらえることになった。

本当に奇妙な運命の人生の時間を過ごしていると思う。

そんな風に始まった平成時代も、最後の最後で大負けをくらってしまったのだった。

始まりは華やかで最後は結局負けで締めたかー、って、あれ?これどこかで経験したぞ、と考えたら思い出した。そういや高校の卒業文集でそんなことを書いたのだ。

その文集は卒業してから一度も読み返してないから(そもそもどこにあるのかもわからない)、全文は覚えてないけど、僕はたしかクイズのことを書いたのだ。何でも書いていいということだったので。

僕が初めてテレビのクイズ番組に出てそして優勝したのは1981年の4月。

収録時は中学生だったが放送は高校に入りたての時期だった。

日曜日19時から放送されていた『アップダウンクイズ』は『ウルトラクイズ』ほど影響力はなかったけど、それでもゴールデンのテレビ番組だったので反響は小さくなかった。

知らない人から手紙が来たり街で声をかけられたりと僕は初めて外からのベクトルを感じる生活をしたのだ。

まだテレビで1回勝ったぐらいなので流石に「クイズ王」という扱いではなかったが、それでも僕はこの分野では一目置かれる存在にはなっていた。

それが高1の4月。で、次にテレビのクイズに絡んだのは高校3年の時だったのだ。

時は1983年12月、『第1回高校生クイズ』である。

『高校生クイズ』は第1回ながら参加者はものすごい数で、予選会場となった大阪球場が満員になるほどだった。

最初の問題は2問同時に出題された。

球場のスタンドを4つのエリアに分けそれぞれを「○○」「○×」「×○」「××」の解答者で埋めるというスタイルだった。

我が京都府立嵯峨野高校チームはその2問を何とかくぐり抜け3チーム9人全員がグラウンドに降り立つことに成功した。

だが僕のいたチームはその次の問題で見事に散ったのだった(笑)

今から考えたら簡単な問題なんだけど当時は簡単に引っかかったのだった(笑)

若いなあ。

予選どころか全国で優勝する気満タンだった僕はさすがにこの時は無茶苦茶落ち込んだ。受験直前だというのに。

だから直後に書いた卒業文集では僕はここでの負け話を書いたのだった。

そして、そのフレーズこそが、華々しく始まった高校のクイズ生活も最後は惨敗して終わった、だったのである。そうそう、これこれ。

平成はまだあと数ヵ月続く。平成30年は「平成最後の年」ではない。

しかしながらこの年末が平成の1つの区切りなのは間違いない。

そしてそのタイミングで惨敗を喫してしまったことが僕は面白くて仕方がなかったのだった。

上手くできてるよなー、とタクシーで高速を走りながらそんなことを考えていたのだった。

でも実は高校の文集の話には続きがある。

僕は文章だけではなくイラストも描いていたのだった。それがニューヨークでの対決のシーン(笑) しかもそれを自分の似顔絵入りで。

つまりは僕はそんな残念そうな内容を書いてはいたんだけど、夢はきっちり具体的に描いており、しかもそれをきっちり叶えていたのである。

ということは、今の惨敗直後のこのタイミングで何かを具体的に描くと、それは完全な形で叶うということじゃないか(笑) 実に面白い。

というわけで僕はワクワクしながら年を越します。

皆さんもどうぞよいお年を。

ではまた来年。




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